大柄な体格の人で、低姿勢な人に出会ったことがないマインドです。

背が高く体が大きいから、人を見る物理的な目の位置が、自分よりも方向は下にあるため、潜在意識として、どうしても見下ろしてしまう。

町中でも、かなり太めの人がポケットに手を入れると、周りからの印象は、偉そうに見えてしまいます。

背がたかくても、細身であれば、ポケットに手を入れると、少しカッコよくみえます。

でも、ポケットに手を入れるのは、やはり印象が良くないです。

体型が太い、細いだけで、かなり印象って違います。

本人は、太い、細いの違いが、自分自身のことだけだ思っている知れませんが、

外見の体全体のバランス、印象とイメージって、様々な人に与える印象は、大きいと思います。

よく美人とか言いますが、

私は、容姿ではなく、顔の大きさ、体の全体のバランスや、スタイルがいい人のことを指すと思います。

自分は、背が高いほうだとおもいますので、
自分を改める意味でも、考え直さなければならないことがたくさんあります。

背が高いのは、物理的な背の高さと、雰囲気のイメージのメリットもあれば、

デメリットもあります。
相手に不快感を与えないために、
日々、イメージ払拭を努めているところです。

個人的に、いつも感じることは、背が高い人、大柄な人が、無口な感じだと、

その場に居るだけで、かなりの威圧感があります。これは、実は、男女限らずです。

街中でのすれ違いでも、背が高い人が、無口で自分の近くですれ違うと、かなり威圧感をおぼえます。

そう感じることが実に多いはずです。

でも、大柄で背の高い人は、少なからず、自分よりも低い人を見ると、自分がもし、威圧していないとしても、

相手からの印象が威圧的に感じられてしまえば、それは威圧しているのと同じです。

それは、主観ではなく、無意識な面です。

人が何年もの成長過程で、子供から大人になり、自分よりも、大きかった大人が、今では、みんな小さく見える。

親戚の叔父さん、叔母さんも小さく見える。

人よりも、背が高くなったことから、自分がそう感じているもんだから、
今更、その心は、なかなかなおらないし、これから、低姿勢に慣れないし、なれない。

人は、環境が変われば、変わります。

マンションも、8階と9階では、外の景色が違います。

たった1階の差でさえ。違います。

人も同じで、目の位置の高さ、3センチ、5センチ、10センチの背の高さで、

それぞれ、お互いが見合うときの印象が全く違います。

女性は、そのへんは、かなり敏感です。

マンションで言えば、3階・5階・7階くらいの景色の違いでしょうか。


ましては、とくに営業職で、低姿勢や、謙虚さというのは、言葉の使い方だけでは、現れません。

だから、行動が伴わないと、あの人、口だけと言われます。

人の好き嫌いも、言葉ではなく、

体の向きで分かります。自分が好きが嫌いか見るところは、あくまで、体の向いている方向です。嫌いな人に対しては、まず正面を向いてない。というか、向けない。無意識に。

そして、話したい人の近くに、嫌いな人がいたら、体は、嫌いな人の方向には、まず向いてないです。

また、人が正面から、近づく場合は、

体が前に一時的に向いていても、

顔だけ後から、背けます。
かなり我慢しています。

でも、嫌いな人だから、嫌な人からの情報だけ欲しい時は、体だけその人の反対方向を向いて、耳だけ済ませて聞きます。

まさに健康診断の聴力測定の姿勢です。

耳がよく聞こえる方向です。

これらの行動で相手が自分を好きか嫌いか分かります。

言葉だけでは、感謝が表れにくい。本当にありがたいなら、行動に移します。
◯ブン◯レブンの中年の男性が、レシートを渡すときは、片手で渡されたら。これだと、ありがとうございましたに、ならない。

片手で渡している本人は、自分が片手で渡している認識がない。

営業で、センスを身につけるのであれば、自分の態度を人で変えない、場所で変えない。

組織で変えない、個人、法人で変えないなど、オールラウンドで、営業です。

最低限、営業なら行動に移す人が欲しいです。

行動は、行う。動く。

とくに、言葉より、行動できるほうが、営業は、信用される気がします。

個人的には、飲食チェーン店は、可能な限り、セルフが好ましいと本気で思っています。雇われ店員が、客に対して◯謝なんてありません。

お店に入ると、時間が過ぎるのを待つ店員をいろんなお店だよく見かけます。

そのへんは、個人でも、チェーン店に十分に対抗できます。だから、個人の店はサービスがいい。

偏見かもしれませんが、個人的には、様々な方と接する際に、営業この人、口だけだなとか、残念さが、話し方でわかります。

これは、個人的な営業職に対しての偏った先入観であり、いまでは、どういうものが営業なのかを自分なりにいまでも、考えています。

ただし、もし、営業をやるのなら、リーマンではなく、自分が代表となったときに、
自分が持つ営業ポリシーを実現したいと考えています。

かなりの偏見であることをお許しください。

いつもの癖でまた長くなりました。詫

マインド
こんにちは。

ドアノブが、濡れていると、いつも凹む(へこむ)マインドです。

街中を歩いていると、いろんなご家族を見かけます。

子供は、なかなか素直すぎて、親の背中を見て、すくすくと育つようです。

親の背中は、実にかっこいいんですが、
その背中よりも仕事している姿は、もっとかっこいいんですが、

実際には、親の行動、行いをみて、素直にマネをしてしまうという表現が、適切かとおもわれます。

親がスマホを触れば、子供も、スマホを触ります。

今では、親がiPadを触っていることもあるでしょう。

いつもの自家用車で運転中、車線変更で、ウィンカーを出さずに、車線変更したり、
また、運転しながら、通話、メールしたり、スマホを見る光景は、子供だって分かります。それが危ないことくらい。

それで、前の車にぶつかる。
かっこいいはずが、一転して非常にかっこわるくなります。

運転席の窓から、タバコの先についたの灰を、ポンポンと指で落とし、道路をゴミ箱にしている光景もさりげなく見ています。

それがよくないことであるだろうことは、子供でもわかる。

でも、子供には親への批判能力がないから、そのままになる。

出来れば、マネさせたくない。

そんなことも、子供は、よく覚えているもんです。変なところで子供の素晴らしい記憶力です。

親に似ているのは、性格よりも、行動な気がします。

トイレのフタを閉めなかったり、トイレの紙も、使い終わると芯を立てたり、手を洗っても、拭かないで、そのままノブを触ったり。そしてノブがぬれる。結構よくあることです。そして、まあいいかとなります。そんなことまで。

家族で道を(横断して)渡るなら、信号のないところは、やめたい。
いつの間にか、目を離した隙に、我が幼い娘が、いつの間にか渡ろうとしてしまいます。
ママの井戸端会議の間に目から離した娘が車に引かれる1分前のスキの怖さにつながります。

そうです。親の漫然とやっていたことが、子供は、いつの間にか見ていたり。

大工の仕事での弟子は、自分の成長過程で懸命に親分の技をいつの間にか盗んで、成長しようとします。

こどもも、物心がつくまで、親は、神様であり、絶対な存在です。子供も変な事まで、技を盗む本領発揮です。

お父様の口ぐせや、お母様の口ぐせもいつの間にか子供が口ずさんでいるなんてことも。

ぱねえとか。ヤバいとか。

そんな言葉なら、まだかわいいほうですが、

それが、暴力的な言葉遣いなら、どうでしょうか。恐ろしことです。

何が恐ろしいかって、自然と暴力的な言葉を使う友達がいつの間にかいたりする。

また、
人前で、咳が出そうなときは、マスクするか、せめてハンカチで口を抑えるとか、
人のいない方向に向くとかあるはずです。
くしゃみするときもね。。
いろんなことあります。くしゃみで、ツバが、広範囲で飛びますからね。

周りの人達にかなり迷惑がられるわけです。

すごく、細かいことですが、マナーとしては、かなりよくなります。

こどもがいる前で親の行動は、一番始めが肝心です。

すると、外に出ると、パパがいつもママに言うことや、ママがパパに言うこと、行うことまで覚えているから、マネしてしまうわけです。それが、当然正しいことだと思い。。

恥ずかしい言葉を言えば、子供は、さりげなく、さらっと口にします。

子供は、父母の会話をよく聞いています。

母や、父の言葉遣いに似てくるわけです。

そして、外でたまに親が赤面することもあるでしょう。

何気ない生活が、子供への成長そのものです。

こうだと教え押付け気味よりも、親自身が日頃から、自分の行動や言動をしっかりすることで、意外にまっすぐ見識をもって育つこともあるかと思います。

たまに、いますよね。礼儀正しい子供ゃ、
マナーまでしっかりしている子供も。

たぶん、親そのものなんだ思います。

子供に挨拶しなさいじゃなくて、親から挨拶するんだとぉもいます。

子供にとっても、親の真似をするほうが、はるかに、楽に覚えます。

料理は、親が面倒くさがって、コンビニだったり、スーパーのお惣菜で間に合わせますと、

すると、台所に立っているはずの光景がないから、食材を調達して、食べやすいように加工して、味付けするまでの過程、いわゆる料理の形を覚えないまま、オトナになります。

すると、いつの間にか、噂の◯京マガジンのやってトライに出てしまったりする。

食べ終えたら、そのままにするんじゃなくて、みんなで片付ける。すると、それが普通と思わせるわけです。

まだまだ、話すると、きりがありませんが。。。

教えるとか、こうしなさいと言うよりも、光景を見せるほうが、はるかに楽です。それがフツーだと思わせるだけ。思い込ませる。それでも、一番最初が肝心です。
親がスマホいじってないでね。親がやる。

それを毎日やる。

疲れる押し付けで教えるより、はるかに。

すると、一緒に暮らしているもんだから、思想(お金や、物の価値観)まで似てきます。

友達の存在も大事です。

友達の言葉遣いも、知らない間に拾ってきます。

すると、言葉遣いでどんな友達との付き合いかも分かります。

テレビを家族で見ていれば、正しいことをしっかり教える。

半分以上作品です。
あくまで作品。

作品が精巧に上手くつくってあるもんだから、オトナでも、テレビの作品いわゆるウソを見分けられないことが多いので、見る機会を減らしたり、カテゴリーを限定するというのも手かもしれません。

それだけ、テレビの影響は、大きいです。

こどもは、お気に入りのお笑い芸人のマネしたり、いつの間にか、歌も覚えるので、テレビ依存は、生活への影響がかなり大きいので、生活習慣を考えないといけません。

なかなか子供を育てるは、大変かもですが、

親が子供を見張るより、大人が子供に見張られていることが多いと考える。

最後に、子供にとって大切なことは、
親の都合で、離婚しないことだと個人的には、思います。それだけは、子供に責任はないから。

切に願いたい。

全国のご家族の方へ、GOODLUCK!

この記事は、誤って削除してしまったので、再投稿致します。

せっかくご評価いただいた方、申し訳ございませんでした。
+128いいねの評価を頂いておりました。
テレビ離れや、最近は、スマホ離れも必要だと感じるマインドです。

ごぶさたでもうしわけありません。

世の中のエンターテイメント系話題にかなり追いついていけてないのですが、

ドキュメンタリーや、ノンフィクション、クローズアップ現代など、

メディアを通して、憲法25条の視点で、よく社会面で生活保護の話や、介護の話などを、

今の仕事とフィルターしながら、考えることがありました。

(すべての国民は、健康で。。。)

ここんところ、社会ニュースで目に止まったのが、

生活保護の現場と、介護の現場(特老施設)を両者を比較したり、共通するところで、

また、すべての人に共通して、必要なものがあることが分かりました。

人がいて、もうひとり人がいて、人と人が、話すこと、会話すること。

社会面では、介護と生活保護は、密接なつながりがあると、個人的に思います。

それは、みんな1人では、経済力があっても、生きていけるとは限りません。

お金がすべてじゃねーの?そうでもないかも。

精神的な心は、満たされていないのではないかという視点で考える。

何がいたいかというと、人は、コミュニケーションを得意とする人も、

苦手とする人も、同じで、相手、人と話すことによって、喜びを感じている

のではないかと思います。すごく大切なこと。

やはり、人は人とつながっていることは、いいことだと思います。

人脈と言います。生きる上では、命です。

人脈とはいっても、ビジネスは、また違います。

どこか心の中で、実は、寂しい気持ちがあります。

最近になって、人の接していること(人と話すことそのものが)って生きていくなかで、

重要なことに気づきました。

会話には、熱があり、人は、その熱に触れることで、精神が満たされていると。

でも、その人に合った話があれば、おそらく、自己形成(自分を作っていくこと)という意味で、

楽しくなるはずです。

これは、人としては、人を話すことは、生きていくためには、必要です。

社会面では、介護も、特別擁護老人ホームにいるおじいさま、おばあさまも、

会話があれば、自身の中で、楽しさが芽生えるはずです。

介護も、常に1人のおじいさま、おばあさまにずっとついているわけではないので、

本人は、本当の自分自身心の中は、一時的に満たされているだけだと思われます。

介護でお世話していても、おじいさん、おばあさんと会話がなければ、亡くなります。

人が自分が生きていることを感じているのは、もっとも簡単なのは、話すこと。

身の回りの世話をするだけじゃなく、もっと大切なのは、会話すること。

個人的には、お金も必要だし、実は、自分の存在を確認するために、

話す、会話する相手も必要なんだと思います。

考えようによっては、会話のほうが、大事だと思うかもしれません。

人と話さなければ、自分を見失う。今の自分は、このままでいいのかと思うこともあるでしょう。

本当は、大丈夫なんですが、やはり、自分の存在を確認が欲しいのです、会話です。

いやでも、会話ったって、パワーも要ります。体力を相当使います。

増しては、自分と価値観、人生観が合わない人との会話は、もっと体力を消耗します。

そこで、人は、この人とは会わないと思い、関係がなくす方がほとんどですが、

それはそれで、受け入れて、理解し合うことも大事です。

それでも、話すことって重要です。

なら、好きな人を話す、好きな趣味を共感できる人と話すなら、よいと思いませんか。

また、会話を苦手をする人もいると思います。

なら、言葉をきれいにいう練習をしましょう。

ありがとうございます。こんにちは。こんばんわ。どういたしまして。またきてね!

この5つの言葉を並べたら、なんだ言葉が喜んでいるように見えます。

面白いもんです。喜んでいる言葉なら、それを相手に伝えましょう。

話す相手も、喜んでくれますよ、きっと。少しずつ、苦手を克服できます。

声を出すのが恥ずかしいとか勇気がいるとか関係ないです。

そもそもなんで、恥ずかしいのでしょうか。面白い感覚です。

たぶん、自分が目立つのがいやだからだと思います。

でも、目立つことが生きている証です。

いい言葉を口から発しつづければ、会話がどんどん成り立ちます。

会話が成立するって、かなり大切です。

日常においても、ビジネスにおいても、重要です。

会話があわないと、相手にされないこともあります。このご時世ですから。

Aさん、いいよね。 Bさん、はい、いいね。 これでも、片言でも、会話成立です。

いいよね。いいね。これも、言葉が喜んでいるように見えます。

いいよね。いいね。この言葉が、優しく感じます。

会話することは、実は健康(精神面)にも直結していると思います。

会話で体温もあがるし、精神作用もおこります。

とても、楽しくなります。脳からドーパミンも出てきます。

ドーパミンは、快感物質のことです。

することで、自分の存在や、考え方の比較や、確認ができ、少し、自信が持てます。

かなり、難しい視点ではありますが、

介護制度では、思い切り、介護士が宅へ入り、お世話をしますが、

生活保護制度では、事実上、入ることはほとんどありません。

生活保護で、怖いのは、生活保護受給者が、自己的に、人と会話することが極端に

少ないことだと思います。(ありえない行政の対応)仕事探せと言われるだけで終わりです。

非常に他人事です。言う方は、簡単です。行政の人間は、そんなものです。

そもそも、法律で動く行政にあまり期待をもってはいけない。してはいけない。

警察や、役所の人間に期待をしてはいけない。

個人的には、保護受給者と会話するまでが、生活保護だと感じています。

もどりますが、

生活保護者が、1人でいたら、会話の相手は、もしかすると、テレビかもしれません。

でも、会話は、一方通行で勝手に話しているだけで、テレビは、一方的に音が流れているだけです。

そう考えると、やはり、現実的には、生活保護者には、介護のように、人との会話が必要です。

意外に、会話士という職業があってもいいかもしれません。

会って、話す、サムライ(士)。

(字は、似ていますが、会計士ではありません。)

生活保護の怖いところは、経済が満たされても、精神的な心が満たされないこと。

自分を作るには、経済よりも精神の向上が必要です

人との会話が途切れ、自分を見失い、社会復帰が遠のいていくこと。

厚生労働省(行政)は、お金だけみて、人(わたしたち)の心(こころ)まで、見ていません。

というか、基本、私たちが(間接的に)作った、法律で動く行政ですから、人の心を見るはずがないです。

生活保護制度ってすごく死角が多いように思います。

増しては、縦割りに動く行政、経済面が(形式的に)保障されるだけです。

それだけで生活保護に関係のない立場から見ると、

十分と思われますが、ぜんぜん、そんなことない。

まったく、足りません。受給とともに、受給者との会話も同じくらい欲しい。

もっと重要なことは、生活保護者の金じゃなく、会話です。

介護にも、生活保護にも、人が生きることも、会話がいる。